地域で育まれた伝統と特性を有する農林水産物・食品のうち、品質等の特性が産地と結び付いており、その結び付きを特定できるような名称(地理的表示)が付されているものについて、その地理的表示を知的財産として国に登録することができる制度です。
GIマークは、登録された産品の地理的表示と併せて付すものであり、産品の確立した特性と地域との結び付きが見られる真正な地理的表示産品であることを証するものです。
江戸時代末期
- 参勤交代のつけ人が「らっきょう」を持ち帰り栽培がはじまる
※他にお伊勢参りの人や朝鮮半島からの海難漂流者による導入説がある
明治36年
- 佐々木甚蔵が仲間と湯山報徳社を結成
- 植樹と砂防垣により防風林の造成に着手
(昭和元年に完成し15ヘクタールの砂丘畑を開発)
大正初期
- 産業組合を設立し、本格的に生産及び販売開始
大正3年
- 福部村海士(あもう)の濱本四方蔵が砂丘畑でまとまった栽培に成功する
大正6年
- 佐々木甚蔵・濱本四方蔵らが15ヘクタールの砂丘畑を開墾し、らっきょう・桑などを栽培
- 国鉄山陰本線の塩見駅(JR福部駅)から鉄道貨車で京阪神に出荷
昭和初期~戦中
- 戦中は不要不急作物の統制令により砂丘畑ではらっきょう栽培が停滞する
昭和17年
- 井手野千代治らが長期保存が可能な塩漬けで販売
昭和23年
- 戦後、初めて京阪神に出荷・販売される
昭和24年
- 「らっきょう」が乾燥に強い作物として注目され始める
昭和26年
- 農協の合併により福部村農協が誕生し『砂丘らっきょう』の統一ブランドで販売される
昭和27年
- 福部村に払い下げられた、旧陸軍の演習地200ヘクタールが周辺集落に分配され砂丘畑が増加
昭和28年
- 「らっきょう出荷協議会」を設立
昭和35年
- 「栽培基準」を統一
昭和37年
- 福部村で砂丘地用スパイク車輪のテーラー式耕耘機が導入される。これにより、テーラー装着の4連作条機、根切り鋤刃、掘り取り機、茎や葉の刈り取り機(モアー)の開発が進み、重労働から次第に解放されていった
昭和40年
- 福部村にらっきょう加工施設が設置される
- 福部村農協が加工原材料として塩漬らっきょうを本格的に販売開始
昭和43年
- 九州市場での販売開始
海士、浜湯山、山湯山、細川、岩戸の各生産組合が本格的な共同出荷・販売を開始
昭和44年
- 京浜市場での販売開始
昭和45年
- らっきょう掘り取り機を導入
昭和50年
- 四輪駆動の大型トラクターの導入が始まる
- 福部村農協が地元「鳥取砂丘」の土産として加工品(甘酢漬け)を本格的に販売開始
昭和52年
- 福部村の砂丘畑にスプリンクラー灌漑施設が完成
昭和54年
- トラクター掘り取り機の導入がはじまる
昭和56年~57年
- 野菜広域流通加工施設整備事業の活用により産地の永続的な保全管理を図るとともに作業の省力化、統一規格の徹底で品質向上を目指し加工施設の整備と洗いらっきょうの共同選果場を設置(岩戸組合、細川組合、浜湯山組合、山湯山組合)
構造概要:鉄骨造2階建
建築面積:2,040.10㎡ 延面積:3,160.90㎡
昭和57年
- 福部村農協が県外に向け積極的に加工品(甘酢漬)を本格的に販売開始
平成元年
- 「第1回全国らっきょうサミット鳥取大会」を開催
- らっきょう皮取り機を開発
平成元年~2年
- 農業構造改善事業の活用により排水処理施設を設置
処理方法の種類:生物膜接触酸化処理
平成2年
- 根付らっきょう共同選果場を新設(岩戸組合、細川組合、山湯山組合、浜湯山組合の一部)
平成4年
- 従来の「荒らっきょう」から「根付らっきょう」に名称を統一
平成5年
- 塩漬けらっきょうの長期保存を目的に塩蔵施設冷却システム14基導入
平成7年
- 塩漬けらっきょうの長期保存を目的に塩蔵施設冷却システム4基追加導入
平成8年
- 健康ブームの追い風にのり、販売が好調
平成13年
- 原料原産地表示の義務化
日本農林規格(JIS)の加工食品の品質表示基準に基づいて、らっきょうの漬物において、原材料名・製造業者の他、原料原産地を包装などに表示することが義務付けられた
平成15年
- 根付らっきょうの共同選果場の増設による増産体制の強化を図った
平成17年
- 塩漬けらっきょうの長期保存を目的に塩蔵施設冷却システム8基追加導入
- 「砂丘らっきょう」の商標登録を取得(登録第4875758号)
平成21年
- 塩漬けらっきょうの長期保存を目的に塩蔵施設を増設、併せて冷却システム10基導入
平成23年
- 財団法人食品産業センターの平成22年度地域食品ブランド表示基準制度「本場の本物」に加工品が認定される
平成26年
- 福部「砂丘らっきょう」販売開始から100年を迎える
※緑色の文字は加工センターの歴史です。
鳥取市福部町は鳥取県の東部、日本海に面した地域で、鳥取砂丘を含む広大な砂丘地が広がるらっきょうの一大生産地です。鳥取砂丘は、山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されていて、規模は南北2.4 km, 東西16 kmに広がっていますが、中でも福部町に隣接している砂丘は高低差90mの起伏(日本最大)があり、鳥取の観光地として全国的に知られています。
春になると、収穫前の青々としたらっきょうの葉が一面に広がり、砂丘畑が爽やかな草原に変化します。二十世紀梨の果樹園も多くあり、梨の白い花が目を楽しませてくれます。梨狩りシーズンになれば多くの観光客が二十世紀梨を求めて訪れます。10月下旬にはらっきょう畑に薄紫色のらっきょうの花が一斉に咲き、遠くから見ると紫の絨毯を一面に敷き詰めた様に美しく、風景として代表的な風物詩となっています。冬になれば雪が積もり、らっきょう畑は銀世界となります。四季折々に変化する風景を楽しめる場所です。
らっきょうの品種
鳥取砂丘に隣接した砂丘畑で栽培しているのは「らくだ種」です。現在は、約120haのらっきょう畑を約75戸の生産農家が栽培しています。
「らくだ種」は、成育旺盛で草丈・葉幅は大きいが分球数は少なく、肉質がしっかりした長卵形(若干細長く卵型)が特徴です。鳥取砂丘(福部)は地力が低く保水力・保肥力の乏しい土壌であり「不毛の地」とも呼ばれていました。そんな土地でも「らくだ種」は適応し、栽培できたのです。
※らっきょうには、「らくだ 種」の他に「玉らっきょう種」、「八房種」とありますが、分球の多い「玉らっきょう種」や「八房種」は、地力の低い福部では小玉になりすぎて不向きなため栽培していません。
シャキシャキ食感のヒミツ
らっきょうは、通常、6鱗片のうち外鱗と内鱗の硬さが同一になったときに歯切れは最高となります。これは、若い葉身の生育が止まり、芯部が充実することで達成されます。身がしまるほど繊維が細かく、食感を増します。「鳥取砂丘らっきょう」は、この条件を全て満たしているのです。
砂丘畑は、強い空っ風が吹き、砂質(70mもの砂の層)の環境であるがゆえに保水力・保肥力が乏しい土壌です。その砂丘畑で栽培することにより、「鳥取砂丘らっきょう」を形成している鱗片は薄く何重にも重なり、身の締りが良く繊維が細かいために歯触りがシャキシャキとした食感となるのです。
色白のヒミツ
らっきょうは、通常、栄養素の多い場所で作ると、玉ねぎのような飴色のらっきょうができます。一方、栄養素が少ない場所で作ると、色白となります。砂丘畑は地力が低く、栄養素等を保持する保肥力が極端に弱いため、色白の「鳥取砂丘らっきょう」が出来上がるのです。
伝統的作業
鳥取砂丘らっきょうの植付けは、100%手植えです。1日あたり1万5千株を人海戦術で手植えします。植え子さん(植え付け作業をする人)はシーズン中、3軒位の農家を渡り歩き植え付け作業を行います。最高65度の地表温度に加えて、砂地にV字の畝を作るために湿らせた水分が蒸発して、大変暑い中の作業となります。
収穫後には、出荷するために葉と根を切り落とす根切り作業が待っています。切り子さん(根切り作業をする人)が一つひとつ包丁で切るのです。「根付らっきょう」は葉と根を長めに残し、「洗いらっきょう」は"太鼓切り"と呼ばれる伝統的な切り方で葉と根を取り除きます。
手植え作業や根切り作業などは、福部地域でたくさんの雇用を生んでおり、鳥取砂丘らっきょうが福部地域に深く根ざしてきた理由の一つです。
労力と手間が掛かるらっきょう栽培ですが、誇りをもって育てた「鳥取砂丘らっきょう」を消費者に届けたいという生産者の想いが原動力となり、100年間生産し続けてこられたのです。